私の体験からあなたのお役に立つ事はありませんか? 〜その3〜

飛び込みセールスすらできなかったセールスマン

AIU保険会社の代理店としてスタートした時、飛込みセールスができず、ダイレクトメールやポスティングに頼りきっていた。
それも一人で撒く自信がなく、子どもを道ずれに団地のポストに撒いて回った。

戻ってきた一枚のメールがきっかけで、一流企業の組合支部と繋がりができ、自動車保険が貰えた。

それ以上に契約が増えたわけではないが、「いつか必ずこの組合を全国規模で商いをさせて貰おう!」と言う思いだけを胸に秘め続けていた。

ある日、週刊誌の記事で″A社のがん保険”が日本に上陸したことを知った。

保険の内容というより、以下の点に魅力を感じた。

1、保険料の安さ

2、契約が続いている限り、手数料が終世支払われること

これらは飛び込みセールスができなかった私にとって、素晴らしい好条件に思えたのだ。

代理店を申請
すぐに新宿にある本社に出向き、代理店申請を願い出た。

しかし、ていよく断わられてしまった。

「保険会社なら、代理店申請を断わられることはない」と思っていたので、数回通ってみた。しかし承認してくれそうもなかった。

そこでAIUの横浜営業所からA社へ転職した、知り合いを頼った。
そのおかげでやっと推薦してもらい、晴れて採用となった。

後から分かったことだが、当時は代理店依頼が殺到し、監督官庁の大蔵省から「新規でどうなるか分からない会社を採用するな」と注意が出てたそうだ。そのため募集を一時中止していた時期があったようだ。

つまり「新設の会社が代理店の作りすぎだ」ということだ。
本来なら損保の代理店が、数千店は代理店になっていてもおかしくなかった。しかし数名しか採用されてなかったようだ。

先見性と粘りが功を奏したと思っている。

ある言葉がきっかけとなり…

それでもこれだけの組織をお客に持ちながら、年間契約数は35〜55件しか挙げられていなかった。

さらには、それまで十数年学んだ自己啓発の勉強も、何の効果も発揮できていなかった。

しかしある言葉がきっかけで、翌々年40才の時には500件の成約となり、その翌年から、毎年平均3,500件の契約が当然のように挙がるようになっていった。

25年後、65才でリタイヤする時は契約件数4万件、年間20億円の保険料を獲得するに至っていたのだ。

創意工夫の営業時代

代理店を始めた時から自分の企画力を信じ、営業範囲も限定せずに、勝手に「全国を営業範囲」と決めて動いた。

当時はバブル期だったため、社員募集をしても老人しか応募がない。
その上、資金が借りれず、仕方なく1人でやることにした。

そのため稟議書が不要で、即決してくれる労働組合を対象にする方法を考えた。
募集方法として、保険会社の特約店制度を活用し、お客様に協力していただく方法を取った。

特に気をつかったのは「お客様に手をかけさせない」ということ。

本部を窓口とせず、全国にある支部を対象に、営業してまわった。

「トラブルが生じたとしても、契約には安全性がある」との思いからである。

幸い個人情報漏洩法施行の前だったので、名簿を手にいれるコツを得ており、初回訪問で名簿を借りることができた。
それが功を奏し、初回の募集を即日決定してもらえた。

なんせ全国に数百カ所ある工場・支店を一刻も早く募集するには、「何度も訪問してからでは遅い!」と考え、初回で決めれもらえるように話法を工夫し、実行した。そこ成功の秘訣があるように思う。

名簿の操作についてはここでは企業秘密とさせて頂こう。
当時はパソコンがなく、借りた名簿を自分でワープロで打ち込み、仮の申込書を作成した。多分、誤字脱字の打ち込みが多数あったろうと思われる。

パソコンを入手してからも、プリンターを2台用意して帰宅する時セットし稼働させ、翌朝出社したら機械がギーギー鳴ってプリント出来なくなっていたことも度々あった。しかしそれも、時間と人手がなく、機械が壊れることは承知の上での行動だった。
できた資料を次の職場会までに送付し、そこで営業した。
職場会では先方の都合によっては、数分の挨拶だけであったり、一時間たっぷりあったりなど、担当者の関心度任せであった。

各人に配布する時、「この保険がいかに大切か」、「組織で扱う重要性」ということを最小限の話法でアピールし、一週間での回収をお願いしていた。

効率的な営業

数十万人の組織が相手でも、「1人でやるには大き過ぎる」とは考えなかった。
百数十ある工場と営業所も多いとは思わなかったし、実際、その中の3分の1は成約できたていた。

普通だったら「これだけの信用が付いたのだから、本部一本でまとめよう」と考えるだろう。

しかし「トラブルに対応するには各支部で信用をつけていく方が賢明だろう」と考え、支部単位の営業に終始した。

また紹介はお願いしなかった。
なぜなら、紹介を頼むと相手の都合に合わせなくてはならないからだ。
つまり時間が制限され、こちらの都合で営業にまわれなくなるのだ。

私の営業方法はこうだ。

1、地域を決める
2、一つ目の訪問先を決める
3、それに合わせ現地に行ってから電話で次の訪問先を予約する

これで効率的に営業できたと思う。

初回で決める

訪問対象が多かったので、会えた人には一回で決めて貰えるよう熱意をもって接した。
また、私の性格が相まって、しつこい話を避けるために訪問回数は年に3回以内と決めていた。

要は初回訪問で決めることに注力したのだ。
実際ほとんどの組織が初回で決めてくれた。

いや、「決められるように持って行った」と言う方が正しいかもしれない。

アフターサービスの重要性
次にアフターサービスに重点を置いた。

「サービスはし過ぎることはない」と思って常に行動していた。

県内でトップの成績になる

そうこうしているうちに横浜にもA社の営業所ができた。

スタッフ一同、成績を上げるために必死だった時期、当社の顧客に目をつけた会社があらわれた。
そこは一社員を専属のように付けてくれ、手伝う社員の出張費も惜しみなく出してくた。

金もなく、人手もない私にとって非常にありがたい協力である。
遠慮なく手伝ってもらった。

そのおかげもあり、その後数年間は神奈川県のトップの成績をおさめた。

参入の危機

軌道に乗っていた矢先だった。

当社の作った大組織に、A社があるルールを無視し、各地の支店が代理店を参入して来た。

そのルールとは、競合を防ぐために「一企業一組織は一代理店のみにする」というものだ。それを勝手な解釈をして、各地の支店が参入して来たのである。

当然ながら私ごときの弱小代理店に「これだけの巨大な組織を任せてはおけない」と思われるのは当然であった。

結局、当社が取り組んでいる組合組織に、勝手な理由をつけて分断し、参入して来たのであった。

結果的には5社位が競合の相手となったが、今日でも実動しているのは、当社と当該会社の代理店のみである。

つづく…

関連記事

特集記事

TOP